
確かにあの夏、僕を一番かわいがってくれていた祖父が死んだ。
何かつっかえ棒が外れたような気がして、
僕はよろけ、しばらく右に傾いた格好で歩いていた。
祖父は寡黙な人だったが、よく僕を野山に連れて行っては、いろんな話をしてくれた。
川を越える時には、アユやヤマメの話。
街を見下ろす小高い山に行った時は、決まって、野ウサギたちの話だ。
僕はそれが大好きだったから、祖父もわかって、その話は何度もしてくれた。
それは、
「カンジ、知ってるか」
「野ウサギは、孤独を愛し非社交的で、繁殖期以外は単独で暮らす」。
と幼い子供向けとは言えない枕詞で始まり、
ワクワクと心躍る、その後(あと)の生態譚へと続くのだ。
野ウサギたちは、野生に生きながら、本質的な慣れやすさを備えていて、幼い内に捕らえられたウサギは、よく人になつく。
犬や猫ほどに賢いとは言えないが、無害で愛すべき特質があり、たとえ自分の身をまもるためであっても、噛みつこうとはしない。
その大きくてやさしいうるんだ目のように、おだやかな性質をもっている。
そして何よりも素敵なのは、酷寒の冬の野山に暮らすウサギたちだ。
うつくしい毛で全身を覆った野ウサギたちも、生きるものを拒絶するような、この北国の吹雪が好きなわけではない。
けれども、冬の平原がすばらしい天気に恵まれた日には、
(それでも人間には、肌を刺す風が吹き荒れる、すさまじい寒さなのだが)
いつでも、この広大な寂しい雪の平原で、満ちたりた時を過ごす。
この北国で唯一の命あるものとして、この地が決して死の支配する土地ではないことを告げるものとして。
厳しい自然が、この赤い眼をした野ウサギだけを、冬将軍の王国に繁栄するものとして育んできたことを告げるために、
彼らは酷寒の地で幸せに暮らす。
たとえば日中の野ウサギたちは、ジッとうずくまって過ごすが、
日没が近づくと、小高い場所に移り、
(「ここがそうだ」、とあの丘で祖父は言った)
まるで風景をめでるかのように、赤い太陽の光の中で座っている。
(だから、ウサギは赤い眼をしているのか。と僕は思ったものだ)
やがて、おもむろに四肢を伸ばし、お気に入りの餌場へと跳ね進み、夜明けまで活動する。
大きな月の輝く満天の星空の夜などは、
それまで孤独に過ごしていたウサギたちが、どこからともなくこの丘に集まってきて、
(本当に楽しそうに)お祭り騒ぎにも似た無言劇を繰り広げる。
それを見る幸せは、この上もないものだ。
(とそこで祖父は胸を張る)
「本当におじいちゃんは、それを見たんだ」。
僕は、スゴイ!と思った。
晴れた日曜の朝などには、何度も祖父と二人雪の平原に行き、彼らの足跡を追った。
Tの字型の足跡があっちに向かい、こっちに走り、
所々では、その鎖が交差している(ここで二匹は出会ったんだ!)。等と想像した。
そんな、辺り一面の白い世界に残された足跡の一筆書きが、幼心にもせつなくいとおしくて、キュンとした。
そんな彼らのことを、僕は祖父の死と共に忘れ去った。
今ようやく、あの頃雪の平原で感じた、どうしようもない愛おしさが思い出されてきた。
僕の方が、非社会的な生きものなのだ。
「ママ、ありがとう。もう帰る」。と言って店を出た。
そこには、相変わらずの、どっちに行っても同じような、グレーの塀に囲まれた道があった。
でも、思い直した。
道は似たようなものであっても、通る自分に目的があれば、またその意志さえあれば違ったものになる。
彼らも、あの白い大平原を、無目的に跳ね回っていたのではないことを思った。
そんなことを考えながら部屋のドアを開けると、下駄箱の上に、すぐ顔を出すように、との伯母からのメッセージがあった。
伯母の部屋に行ってみると、沈んだ顔をして、僕に香典を手渡して言った。
「しずちゃん(ウサギさんの本名だ)のお婆ちゃんが亡くなったって、私の同級生なのよ。
あなた、持って行ってくれない。この夏も帰らなかったから、お母さんも、どうしているのか心配しているだろうから、顔を見せてきなさい」。
と言って、電車代も握らせてくれた。
そして、あの子は本当に一人ぽっちになってしまった。
ということを話しながら、涙を流している。
僕は聞きながら、そそくさと晩ご飯を平らげ、まだ話途中の伯母を残して部屋に帰り、簡単な身支度をボストンバックに放り込んで駅へと急いだ。
残念ながら、「はつかり」の最終には間に合わなかった。
乗り込んだ「はくつる」の寝台にはバックだけ置いて、廊下の窓から外を眺め、一睡もせずに青森に入った。
野辺地を過ぎ浅虫の手前あたりで、陸奥湾越しに荒涼と吹き当たる風に雪がまじってきた。
十一月の末、初雪なのかもしれないなと思った。
自然と童謡「ふるさと」が口から出たが、歌い出しのところで胸が詰まってしまった。
「うさぎ追いし、かの山〜」
その先に進めずに、繰り返し繰り返し、そこだけを口ずさんで、青森駅に着いた。
(終わり)